場づくりの世界観

先日、zoomで「場づくりマニアック」という座談会を開きました。おもに兵庫県の尼崎などで場づくりに取り組む藤本遼くんが、場づくりに関するおもしろいnoteを書いていたので、そこからいくつかのテーマを抽出して話し合ってみる、という会です。

少人数でじっくり話してみたい、ということで現場でどっぷり場づくりしてそうな人たちを誘って開催。組織づくりのファシリテーターをやってる人、カンボジアやタイの教育現場などでファシリテーターをやってる人、NPOを退職したばかりで週末にカレー屋さんをやっている人、ネパールやマラウイで仕事づくりや教育事業に取り組む人、アジア圏のコーヒーを販売している人、若者向けに私設図書館を開いている人、シェアハウスを運営している人・・・などなど、色んな分野の人たちが集まってくれました。

遼くんのnoteから抽出した4つのテーマに、もう1つ加えて5つに。なかなか盛り上がりましたので、今後も色んな人たちと話し合ってみたいテーマたちです。

①オンラインとオフライン・ローカル
②人間と自然(動物)と場づくり
③コミュニティの周縁と個人
④場の偶然性、セレンディピティ(予想外の発見)
⑤死者との関わり

zoom上で少人数の小部屋に分かれて話しましたが、各部屋では上記①〜⑤のテーマを横断的に話していた感じです。参加者に「zoomの表示名に興味のある番号を追記してください」とお願いすると、みんな「①③⑤」という感じで書くので部屋の割り振りに悩んだという。さてどんな話があったのか、3つのトピックを紹介します。わたしの主観も大いに反映されていますが。

コミュニティの周縁

話し合いの場づくり、一緒にものづくりや空間づくりに取り組む場づくり、何かを一緒に学ぶための場づくり。色んな場づくりに取り組んでいる人たちがいますが、そんな場からコミュニティが生まれていきます。

③コミュニティの周縁と個人、につながる話です。

自分にとって居心地のいいコミュニティを見つけることができると、毎日が楽しくなる感触があると思います。「もう何十年も◯◯会に参加してる」という人もいます。一方で、離れる人もいます。人間関係の不協和音や、「最近テーマになっている話は私には合わない」など、様々な理由があります。

今回の座談会では「コミュニティの周縁」を「コミュニティとコミュニティの隙間」くらいの意味合いで語っていました。周縁には、上記のようなコミュニティから離脱した人たちがいるかもしれません。あるいは所属を嫌う一匹狼的な人たちもいるかもしれません。会社や組織に所属していにも関わらず、圧倒的に確立された自分の世界を持つような人もいるかもしれません。コミュニティによる情報発信が届かない領域にいる人たちもいるかもしれません。

この「周縁」とコミュニティを自分の意志で自由に出入りできる状態って、大事なんじゃないかなと個人的に思いました。コミュニティと周縁がうまく関わり合うと、コミュニティだけでは発揮できない価値が生まれるかもしれない、という話も出ていました。

コミュニティにいて、息苦しくなることってあると思います。例えば人間関係に多大なストレスを感じてしまう時。自分のやりたいことができない時。特に学校や会社などは抜け出すハードルが高いので、息苦しいまま耐え忍んでいる、という人もいると思います。そんな時、周縁を行き来している人と出会えるかどうか。周縁を認識している人が、連れ出してあげることができるかどうか。

今はコミュニティがひしめき合っているし、日本の場合は生まれた時から既に何らかのコミュニティに属していることが多いので、この周縁の存在には気づきづらいかもれいません。

わたし自身は複数のコミュニティに所属していて、かつフリーランスでもあるので、周縁を行き来している人に近いと思う。周縁にいるただの1人としての自分、そんな視点も持ちながらコミュニティにいる人たちを見ていきたいと思いました。

死者から学ぶ、死者に救われる

死者というと大げさかもしれませんが、例えば歴史上の人物の書籍から学ぶこと、これは死者から学んでいることになります。例えば地域の歴史を紐と解く時、死者が残した記録をたどることになります。そんな時、死者と話しているような気持ちになります。

わたし自身も死者たちから学びとることによって、今の生き方にたどり着いています。手っ取り早いのは本を読むことですが、限られた人たちしか本を残していません。

なので本に限らず、遺物や空間など、色んなもの・ことを通じて死者とつながる、死者と関わる場づくりというのは、具現化してみるとおもしろいのではないかという話をしていました。それによって勇気を得る人や、救われる人がいるかもしれません。

カンボジアから参加してくれた人が、興味深い話をしてくれました。カンボジアの人たちは自国の書物を通じて歴史を知ることができません。1970年の内戦の後、1975年から始まったポル・ポト政権による恐怖政治により、学校教育を廃止して校舎は破壊。教員などの知識人は殺害か強制労働。書物を焼き捨てるという政策により、大半の書物が失われたといわれています。

歴史の大半を書物から学んでいる日本人にとって、書物がないという前提は想像しづらいです。それは逆にいうと、書物以外から死者たちについて学ぶとはどういうことなのか、という示唆でもあります。

目的のないところに創造がある

今回の座談会では、これが一番盛り上がったトピックかもしれません。最近は目的志向の場づくり、コミュニティが増えているよね、という雑談から。

そもそもコミュニティという言葉は、1917年にアメリカの社会学者のマッキーバーさんが言い始めたものです。コミュニティは一定の地域において営まれる共同生活であり、共通の慣習や帰属意識をもつもの。それと対になるのが組織で、組織は特定の目的と利害関係のもとにつくられます。彼はコミュニティと組織の関係を「ビールと泡の関係」と表現しています。泡(組織)はビール(コミュニティ)がないと存在できない。特定の目的というのは、泡にすぎません。

しかし最近のコミュニティはこの「泡」に傾倒していて、コミュニティといいつつ組織的な論理も働いていて、なんだか息苦しい時もあるよね、という話です。

今回の座談会も「場づくりについて話す、っていう何となくな目的があるよね」と。しかしあくまでも雑談という感じで、目的と関係ない余談をいくら話しても許容される、そんな雰囲気もありました。「④場の偶然性、セレンディピティ(予想外の発見)」につながる話だと思います。

日本人は小学生の時から時間割に沿った行動を強いられる環境で育つので、計画性を重んじる傾向があります。加えて会社に入って仕事を始めると、「その仕事の目的は何か」を日常的に問われます。時間割も計画もなく目的もない、ダラダラと雑談したりぼーっとしたりする機会が少ないかもしれません。

しかしそんな状況下だと、目的と計画にとらわれた発想しか生まれてこないと思うのです。

わたしの大好きな「ハンターハンター」という漫画にジンというキャラクターがいて、まあ破天荒な冒険家という感じの人です。ジンがネットで探した仲間と一緒に遺跡を調査した時のエピソードを息子に語る時に、こんなことを言っています。

「オレはいつもいまオレが必要としているものを追ってる。実はその先にある『本当に欲しいもの』なんてどうでもいいくらいにな」
「大切なものは、ほしいものより先に来た」
「道草を楽しめ。大いにな。」

遺跡を調査するという目的そのものよりも、そこで出会った仲間のほうが自分にとって大切だった、という話なんですが。そんな発見があるから道草を楽しむことを大事にしている、ということなのかなと勝手に解釈しています。

道草ばっかりしていると、計画通りに目的を達成することはできませんね。でも道草したところに自分にとって大切な発見がある、なんてこともありそうです。

今回の参加者に、自分のことを「目的モンスターでした」と言っていたり、「パートナーに目的を迫りすぎて怒られた」というエピソードを話してくれる人もいました。「目的を持たなければならない」という観念は、わたしたちの頭の中に濃く染み付いていると思います。(もちろん、それが悪いということではない)

目的のない場づくり、道草を楽しむ場づくり。

藤本遼くんが淡路島で「なにもしない」ような合宿を企画していて、スケジュールはあるけど大半の時間に「なにもしない」と記されています。みんなが「それいいねー!」となっていたのが、今回の最大のハイライトな気がしました。

あっという間に2時間以上が経過した楽しい時間でした。また色んな題材をもとにやってみたいなあ、と思っています。一緒にやってみたい方、ぜひお声がけください〜。

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